という前提でいつも過ごしているのですが、それでも他人に干渉したくなってしまうのも人間の性。
仕事や家庭の事象やその他もろもろ。離れることはできない、他人へ干渉せざるを得ないのならば、その手法を自分なりに変えていく、コレが正解に思えます。
少し試してまた変える。少し試してまた変える。自分をちょこちょこ変えていく。これはいつでもできることなので、できる範囲で無理のない程度に。
望んでる結果と違くても悲観し過ぎず、結果を受け入れて、また進む。そういうので良いと思う。
という前提でいつも過ごしているのですが、それでも他人に干渉したくなってしまうのも人間の性。
仕事や家庭の事象やその他もろもろ。離れることはできない、他人へ干渉せざるを得ないのならば、その手法を自分なりに変えていく、コレが正解に思えます。
少し試してまた変える。少し試してまた変える。自分をちょこちょこ変えていく。これはいつでもできることなので、できる範囲で無理のない程度に。
望んでる結果と違くても悲観し過ぎず、結果を受け入れて、また進む。そういうので良いと思う。
いつの間にか自分が勝手に決めつけてるルールって増えてると思います。
個性を形作るうえでは、必要なことかもしれないけど、それが足枷になるくらいなら外せばいい。
例えば、昨日まで菜食中心だっだとしても気が変わって明日から肉食中心でも良いと思う。それが苦痛ならってのが前提ですが。
例えば他人からお前言ってること違うじゃん、と言われても、そりゃ昨日の自分と今日の俺は違うんだと言えばいいわけで。商業的な理由でやってるのなら問題あるかもですが。
主義思想に縛られず、お気楽に。が自分に合ってるかなと思う。
通勤途中の電車で、路上で。毎日じゃないけど大声で揉めてるシーンを何度も見かけます。
詳細はわからないんですが、ざっくり言うとどっちが先にぶつかったとかそんなん。大人同士です。しかも見た目でいえば、おっさんの部類。
なんでこういう時おっさんなんだろ?っていつも思う。イケメン、せめてイケオジのパターンはないんだろうか?なんで?知ってる人教えて?
言と葉。体験、つまりコト(言)で得た人の心を種にして、それを葉のように生い茂るようさまを言葉と呼ぶようになったそう。言葉を紡ぐ事でその人が形作られる。
AIの種は学習データなので、これを心と呼ぶのは少し違うように感じますよね。逆にいえば人間こそ言葉を喋らないと。っていうのがより大事になる世界が到来するのでしょうね。
そういえば?って話題である。ニンゲンモテ期は3度あるというが、今のところ2回ぐらいあった気がしないでもない。
正確にはモテたのではなくて、チヤホヤされて浮かれてた期である。付き合ったわけでもないので。あー付き合えば良かったなとか思ったりすることもある。
それはさておき、あと1回ぐらいモテ期来るはずですが来ません。カウントがおかしいのか?というかモテるとかそういう時期通り過ぎてる感もあります。年齢的に。皆さんは、きました?
普段の生活の中で読むこと観ることはめっちゃ多い。というかほとんどそうなのではないだろか?
てことは、この読む見るの楽しみ方を体得すれば、人生かなり楽しくなるのではないなあと。